ブリテン島周辺の巨石文化について
イギリスを知る会会報「Ladies & Gentlemen」2007年4.5月号に掲載されたものに手を加えたものです。
山田英春

●巨石探訪の旅
 巨大な石を運び、並べ、組み上げた太古の文化を巨石文化と総称します。私がブリテン島の巨石の主なものを全て見てみようという極端な旅を続けるきっかけになったのは、10年ほど前に訪れたスコットランドの北のオークニー諸島、西北のアウター・ヘブリデス諸島への旅でした。
 オークニーの本島は約5000年前の「巨石の都」です。静かな湖畔の平原に、見上げるほど大きな石板が数本、刃のように突き刺さったスタンディング・ストーン・オ・ステンネス、ほぼ真円に近い円形に大きな岩がずらりと立ち並んだ、巨大なストーンサークル、リング・オ・ブロガーが隣り合うようにして並んでいます。非現実的ともいえるような風景でした。農耕を基本とする定住生活が始まって数世紀後に作られた、共同体の文化的表現の萌芽ともいえるものが、なぜこのような極端な、非合理なほどの量感をもった施設になったのか、不思議というほかはありませんでした。近くにはネス・オブ・ブロッガーと呼ばれる複数の大きな石造建造物を厚さ4メートルにもおよぶ石壁で囲んだものがあったことも後年発見されました。
 アウター・ヘブリデス諸島は岩山と大小無数の湖、湿地が広がる荒涼とした風土ですが、見晴らしの良い丘の上に立つカラニッシュのストーンサークルは優美で、夕日を受けて輝く岩々の上に虹がくっきりとかかりました。誰がどのような情念で作ったのかという考古学的興味と同時に、イギリスの見晴らしの良い地平と大きな石のモニュメントとが作り出す独特な景観には、まるで大規模な現代彫刻の展示でもあるかのような空間の妙を感じました。以後、数回にわたってブリテン島各地を撮り歩くことになりました。

●ブリテン島の巨石遺構
 ブリテン島周辺の巨石文化は紀元前4000年頃から2000年頃、新石器時代の終盤と初期の青銅器時代にまたがって展開したものです。大きな岩を組み上げた墳墓を作った時代、岩を円形、あるいは直線上に並べた時代など、いくつかのエポックがあります。巨石墳墓の骨組みだけが露出したものはドルメン、クォイト、クロムレクなどと呼ばれ、世界各地にみられますが、岩を円形を並べたストーンサークル、直線上に並べたストーン・ロウなどはブリテン島周辺に特有のモニュメントで、用途もはっきりわかっていません。また、一本、あるいは二、三本の岩が立つ、スタンディング・ストーンも数多くあります。
 日本ではストーンヘンジ以外はあまり知られていませんが、ブリテン島にはストーンサークルだけでも約1300、スタンディング・ストーンなどもカウントすると、数え切れないほど多くの巨石が残っています。失われたものも数多いはずですので、元は倍ほどの遺跡があったかもしれません。その数は当時ブリテン島に住んでいたであろう人口を考えると、不自然なほど多いと言ってもいいほどです。古代の巨石文化は世界各地でみられますが、これほど多く残っている場所はなく、ブリテン島の石器時代の人々は無類の石好きだったと言ってもいいでしょう。
 青銅器時代中期になると巨石の時代は終わり、遺跡は放棄されたまま数千年の時を過ごすことになります。泥炭層の中に沈んでしまったものや、壊されて教会や家の建材に使われたものもあります。しかし、巨石は完全に忘れ去られたわけではありませんでした。別の形で人々の生活の中に生き続けます。民間伝承の世界では、しばしば、巨石の下には妖精の棲む世界が広がっていると考えられていました。巨人が作ったものである、あるいはアーサー王が作ったものであるという考えも、ウェールズやコーンウォール地方を中心に広く残っています。中世には悪魔、邪教の施設だと考えられ、石を地中に埋めるということが行われた形跡も残っています。
 巨石は様々な民間信仰の対象となっていて、お守りとして石のかけらを身につけたり、深夜に石に将来の結婚相手を訪ねたり、手足の病気を治す力を得るため、穴の空いた岩に子供を通したりということが各地で行われていました。妖精に連れ去れた子供を取り返す場所と考えられていたところもあります。キリスト教会は当初、そうした巨石信仰を止めさせようと腐心しましたが、根強く残り続けました。
 ピューリタニズムの勃興とともに、厳格主義が広まると、あらためて巨石を異境的な施設として排除しようという動きが広まります。安息日に遊んでいた娘たちが神罰で石に変えられたものだというストーリーも広く流布されるようになります。20世紀後半になると、ストーンサークルは宇宙人が作ったもの、あるいは失われた超古代文明の名残であるという、「現代のフォークロア」ともいうべき考えも広まっていきます。


●ストーンヘンジとは何か
 ソールズベリー平原に残るストーンヘンジはイギリスだけでなく、世界の巨石文化の代名詞のような遺跡ですが、これはイギリスの他のどんな遺跡にも似ていない、特異な構造をもっています。数十トンもの巨大な岩を四角く形成し、ほぞ穴と突起をつけて、ブロック玩具のように互いに組み合わせてあります。また、サーセン石と呼ばれる巨石の他にブルーストーンと呼ばれる小ぶりな石柱が多数使われていますが、これは直線距離で220キロも離れた、ウェールズ南西のペンブロークシャー地方から運ばれたものです。なぜそれほど遠くから石を運んだのか、長らく謎とされていましたが、ストーンヘンジに埋葬された骨の分析により、ストーンヘンジの建造はウェールズ南西部から移住した人たちによって始められた可能性が高いことがわかってきました。
 イギリスの巨石文化のなかでは異色の存在なのですが、やはり、巨石文化を代表する遺跡ですので、ストーンヘンジを知ることは、巨石文化全体を知ることにつながっていきます。
 ストーンヘンジの用途に関しては様々な仮説があります。巨石が持ち込まれる前、堀と土手の囲い地として始まり、多くの火葬された人骨が埋葬されましたが、その数世紀後に巨石建造物が作られてからは埋葬の痕跡はありません。出土品もほとんどない為、用途に関しては様々な仮説がたてられてきました。遺跡へと続く通路(アベニュー)が、遺跡の中央から見て、夏至の日の日の出の方角に、またその反対方向が冬至の日没に合わせてあることから、太陽の運行や暦に関連した宗教施設であると見るのが大勢ですが、岩の配置を細かく分析し、大きな天体観測所、さらにすすんで、天体の動きを計算する機能ももっていたと主張した天文学者もいます。また、この遺跡は建設途中で放棄されたもので、本来は石の環をさらに重ねた複雑なものになるはずだったと主張する研究者もいます。また、近隣の大きな住居跡などの発掘により、ストーンヘンジが居住区と一体の施設であったことがわかってきました。今後もこの遺跡の用途を明らかにするものが出てくる可能性もありますが、おそらく謎のまま残ることでしょう。


●伝説と歴史学
 遺跡の用途と同様、作り手に関しても、長らく議論の的でした。伝説では、かつてブリテン島に数多く住んでいた巨人が作ったものとされていました。ストーンヘンジを説明した最初の書物、12世紀の「ブリタニア列王史」によれば、アーサー王の伯父にあたる王が、サクソンとの戦いで命を落とした諸侯の弔いのために、魔法使いマーリンに命じてアイルランドから運ばせたことになっています。ただ、これは創作された物語と考えられています。
 一方、歴史学者たちは、ローマ人、サクソン、デーン人、つまり、ブリテン島に流れ込んだあらゆる民族を「建設者」の候補としてあげました。「有史以前」という概念のない時代には、「石器人」は存在しませんでしたし、ローマ時代以前のブリテン島は裸同然で暮らす野蛮人の国というイメージがあり、そのような大規模な施設を作る能力はなかったと考えられていました。ストーンヘンジは自然石でできたものではなく、ローマ時代に石の粉を固めて作ったものだと主張した学者もいました。
 一方で、ルネサンスの波がブリテン島にも及び、ローマ時代の文献などが読めるようになると、知識人たちの間に「ローマ以前」の社会、ブリトン人の世界に関心を持つ人が増えていきます。ドルイドと呼ばれた祭司が登場するケルト文化の時代は、ロマン主義的心性やナショナリズムの一部とも結びつき、次第に美化され、重視されていくようになります。18世紀には、ストーンヘンジもまた、ローマ以前、つまりブリトン人の作ったものであり、ドルイドたちが儀式を行った場として考えられるようになり、19世紀を迎えるころには、この考えは完全に定着します。イギリスがヨーロッパの周縁から世界最強の国となっていく課程と並行して、ブリテン島固有のケルト文化を、キリスト教の本質を先取りしていたものとして評価し、ヨーロッパ文化史の本流に直結させる考えも生まれました。ケルト文化を復興させようという動きも盛んになり、白いローブをまとった「現代のドルイド」を標榜する団体が作られ、チャーチルなどの有力者も名を連ねます。「現代のドルイド」はストーンヘンジの中で儀式を行い、現在に至っています。イギリス各地に残るストーサークルにしばしば「ドルイドの」というような名や説明がつくのは、このためです。


●考古学の始まりと新たな発見
 歴史学がキリスト教的世界観から独立し、近代的な考古学が生まれると、ストーンヘンジはブリトン人の時代からさらに遡り、後期新石器〜青銅器時代のものであると特定されるようになります。しかし、作り手を巡る議論は依然として紆余曲折します。青銅器時代の初期に平底のビーカー状の土器が登場しますが、これは大陸からの青銅器鋳造技術をもった人たちの到来を示し、ストーンヘンジなどの大規模な遺跡は彼らが作ったと考えられるようになりました。彼らは「ビーカー人」と呼ばれますが、どの程度の人口の流入があったのか、ブリテン初頭の青銅器時代は移民たちによって作られたのか、それとも少数の移民による文化的伝搬という見方をすべきなのか、議論が分かれていました。
 2004年、ストーンヘンジの近くのエイムズベリーで、紀元前2300年頃に埋葬された二体の男性の墓が、ブリテン島最古の金細工などの、他にはみられない豪華な副葬品とともに発掘されました。このとき、ストーンヘンジの巨石建造物はまさに紀元前2300年頃に建造されたと考えられていたため、同時期の人間と見られました。また、二人の男性の歯のエナメル質を分析したところ、彼らは中欧のアルプス地方育ちである可能性が高いという驚くべき結果が得られ、まさに大陸から渡ってきた「ビーカー人」であることが示されました。副葬品にはスペインやフランス産の金属もあり、石器-初期青銅器時代の人的ネットワークの広さを再認識させ、ブリテン島は決して孤立した場所ではなかったことを印象づけました。ただ、ストーンヘンジは大陸から渡ってきたビーカー人によって作られたという説を強く裏付けるものと見られましたが、その後のストーンヘンジの再調査により、巨石建造物はこの二人の男性の埋葬よりも200年以上古いことがわかり、「ビーカー人」による建造という見方は有効でなくなっています。
 このように、巨石が立つ場所には深く、非常に複雑な歴史的地層があります。また、巨石には時代の移り変わりとともに、様々なイメージが与えられ、語られてきました。巨石は、それぞれの時代に生きた人々の想像力の及ぶ、最も遠い場所、過去へのイメージの果てに立ち続けてきたと言っていいでしょう。巨石遺跡そのものと、巨石に与えられてきた様々なイメージは、互いに分かちがたく長い時を経て、大きな意味での「巨石文化」を形づくってきました。私はそうした広義の「巨石文化」に興味があり、遺跡の写真とともに、様々な学説や各地に残る伝承などをまとめて、2006年に「巨石--イギリス・アイルランドの古代を歩く」(早川書房)という本にまとめました。また、2023年に、21世紀に入ってからの様々な発見によってわかったことを中心に『ストーンヘンジ──巨石文化の歴史と謎』(筑摩書房)という本にまとめました。本サイトは本の出版に先駆けて発表していたもので、解説も簡潔な形でまとめてあります。