スコットランド北東部を旅すると、道路際、丘の上、あるいは古い教会の裏庭、町の郷土博物館で、奇妙な文様が刻まれた石碑を見かける。多くは組み紐文様やケルト的な螺旋文様で飾られた、アイルランドのハイ・クロスと似た様式の十字架を彫りこんだ石碑だが、十字の周囲、あるいは裏面にはキリスト教と一見して無縁の、様々な図形、絵柄が彫られている。三日月の形や円形が二つつながった形に折れた矢のような直線模様が重ねてある抽象的な模様、ヘビや牛、鷹などの実在の動物像や馬人や竜のような架空の生きものらしき像、手鏡やハンマーなどの道具類などが狩りや戦闘の場面などと一緒に、あるは単独で彫られている。それらは何らかの意味をもったシンボルマークのようで、同じマークが複数の石碑に繰り返し現れる。石板の説明には「ピクト人の石碑」とある。
12世紀のノルウェーの歴史家はこう書いているらしい。
「ピクト人の背丈はピグミーくらいしかない。彼らは明け方と夕暮れ時には驚くべき能力を発揮して町を築くが、日中はまったく元気がなくなってしまい、地下の小さな家の中にビクビクしながら引きこもっている。」
――これではまるでコロボックルか何かのようだが、19世紀ころまでピクト人は「地下に住む小人」だったという伝説が広く信じられていたらしい。

ピクト人は現在のスコットランド人の祖先だ。いや、「主な」先祖というべきだろうか。スコットランドの「スコット」はアイルランドから移住してきたスコット族をさすが、スコット族が入植するよりずっと前からスコットランド北東部に住んでいた諸部族をピクト人と総称している。「ピクト」はかつてブリテン島に攻めこんだローマ帝国兵がつけたあだ名で、3世紀頃、大陸を制圧してさらに北進したローマ軍がブリテン島の北方で闘った相手がこのピクト人だった。記録によればきわめて好戦的で手強い相手であり、ハドリアヌスの長城(現在のイングランドとスコットランドの国境でもある)沿いに駐屯していたローマ兵たちは海路を使った背後からの奇襲にあうなど、ピクト人の攻撃に苦戦し、結局ブリテン島全土を制圧するには至らずに撤退した。彼らが闘った相手をpicti、「塗られた、絵の描いてある人」と呼んだことから、現在まで「ピクト人」の呼称が残っている。そのあだ名から、恐らく体にたくさん入れ墨をしていたのだろう、と長らく推測されてきたが、他にピクト人が入れ墨をしているという記録はなく、真相はわからない。戦士が戦闘用に顔などをペイントしていたのかもしれない。いずれにしても、このローマ人が残した「入れ墨をした、野蛮な、好戦的な部族」というイメージが一人歩きし、誇張されて、図のように裸族で体全体が入れ墨で覆われていたかのようなイメージにまで発展した。それ以外にも、ピクト人は母権制社会だったとか、スキチア=中央アジア方面から男だけが移動してきて、アイルランドのスコット族に土地を求めたが叶わず、かわりにスコット族の女性を与えてもらい、スコットランドに住むようになったとか、様々な伝承があるが、いずれにも明確な根拠はない。現在のスコットランド人の祖先であるから小人であるはずはなく、また、寒さの厳しいスコットランドで一年中裸で暮らせるはずもない。スコット族に嫁さんをもらった云々というのもおそらく後に征服者となったスコット族に都合の良いように作られた話だといわれる。ただ、面白いことにスキチア(中央アジアのカルパティア山脈周辺をさすらしい)の名に由来するスキタイの動物を象った金細工にはピクト人が描く足の付け根に螺旋形の模様の入った様式が見られるという。

16世紀のイタリアで描かれたピクト人の男女の姿。


スコットランド人の祖先であるピクト人がなぜこのように伝説的な、曖昧に神秘化された存在として語られた続けたかというと、彼らの社会、暮らしぶりに関して信頼に足る記録がほとんど存在せず、ピクト人としてのアイデンティティ、文化の独自性はスコットランドに流入したスコット族、ヴァイキング、アングル族などとの混合の中で消えてしまったからだ。彼らが自分たちのことを何と呼んでいたのかすらわからない。残っているのはアイルランドの修道会によって作られたピクトの王の名前のリストと数少ない記録だけだという。わずかな記録からおそらく正しいと思われることを列記すると以下のようなことらしい。
ピクト人はブリテン島北部、現在のスコットランドの鉄器時代以降で「確認されている」最も古い先住民だ(石器時代からの土着民であるという説もあるらしいが)。北方のピクトと南方のピクトと、大きく分けて二つの集団があった。氏族社会だったが、そのふたつが3世紀初頭くらいまでにはCaledoniとMaetaeという二つの国に収斂していった。さらに6世紀ころ、アイルランドからスコット族が入植しはじめ、西方のArgyllの大半が彼らの王国Dalriadaとなると、ピクトの諸部族もそれに対抗してより大きな連合となり、ひとつの王をいただくようになる。また、ピクトの攻撃に悩まされたブリテン島南部のケルト・ブリトン人(現在のウェールズ人の祖先)が迎え入れたアングル族、サクソン族(アングロ=サクソン)や北方から攻め入ってくるヴァイキングとの対抗関係からピクトの社会はスコット族との一体化の道をたどり、次第にスコット族社会に包摂されていき、9世紀にはピクトの独立王国は消滅して、スコットランドとなった。彼らはケルト系の言語を用いていたようだが、ブリトン人ともスコット族とも異なる言語で、アイルランドからスコットランドにキリスト教を布教しに訪れた聖コロンバは通訳を介していたという。現在は彼らの言葉の名残が東部の一部の地名などに残っているだけだ。
このようにほとんど記録の残っていないピクト人だが、同時代の他の文化に例の無いほどたくさんの歴史的遺物を残している。それが、6世紀から9世紀ころにかけて作られたピクト人の石碑だ。石碑はおおまかに3つのタイプに分類できる。
最も初期の石碑は自然のままの未加工の岩にピクトのシンボルマークだけが彫られたもので、これをクラス1と呼ぶ。AberlemnoのNo1Picardy Stoneなどがこのタイプで、単純な線刻だけの、技術的にも拙いものがほとんどだ。次に現れるのが、十字架とピクトのシンボルが一緒に彫られているもので、これをクラス2と呼ぶ。表は十字架とキリスト教関連の図像、裏がピクトのシンボルと狩りの風景といったものが多い。十字架は長方形や五角形に加工した石板に組紐や螺旋模様で飾られた形で彫られ、彫刻も浮き彫りになり、技術的にも格段の進歩が見られるが、技術水準は石碑ごとにまちまちで、同時代でも非常に技巧的なものときわめて稚拙なものがあり、これがピクトの石碑の特徴でもある。例えば、Niggのクラス2の石碑はケルト系の石彫としては最高水準のものと言えるが、Montorose博物館にあるInchbrayochの石碑などは恐ろしく下手でとても同時代に作られたものとは思えない技術的落差がある。こうした落差は各部族間の技術的・人的交流の有無によるものかもしれない。ピクト人は王をいただいていたが、基本的に独立した部族の集合体であったということが、こうしたところにも伺えるようにも思う。最後に登場するのが、クラス3と呼ばれる(あるいはピクトの石碑とは見なさないという考えもあるようだが)グループで、明らかにピクト人の手になるものだが、十字架とキリスト教的コンテクストに基づく図像だけで構成されていて、ピクトのシンボルが全く見られないという石碑群だ。この三つはほぼ時系列に沿って現れ、9世紀のピクトの国の解体とともに姿を消すことになる。
ピクトの石に現れる螺旋や組み紐文様で装飾された十字架の様式はおそらくキリスト教とともにアイルランドから来たものとみられている。螺旋模様の多くは大陸のケルト文化に由来する様式だ。ぶどうの蔓の装飾や動物の体を折り曲げた組紐模様などのアングロ・サクソン系、ヴァイキング系の装飾様式などもふんだんに用いられている。Aberlemno No2の装飾などはノーサンブリアの美しい装飾写本『リンディスファーンの書』と多くの共通点を持つ。また、ピクトの美術様式が他の文化に影響を与えたとみられる事例もある。ケルト系装飾芸術の最高傑作と言われる装飾写本『ケルズの書』には明らかにピクトから影響を受けたと見られる、足の付け根に螺旋状の渦巻き模様がある動物像が現れる。これをみて、『ケルズの書』がピクトの地で作成されたと考える研究者もいるようだが、いずれにしても、ピクトの石碑に現れる様々な美術様式は当時のブリテン島北部における文化的混淆を具体的に示している。

左は『リンデリスファーンの書』の装飾ページの部分、右はAberlemno No2の装飾

左はピクトの石彫、右は『ケルズの書』に現れる動物像

ピクトの石碑には狩りや戦闘の場面、ハープなどの楽器を弾く人物、酒を飲む人物などが描かれ、わずかながら彼らの社会、生活の様子がうかがえる。また、Aberlemno No,2のように具体的な歴史的事件を描いたものもある。ピクトの石碑は同時代のアイリッシュ・クロスやノーサンブリアのアングル族が残した装飾的な石碑などと比べると、ずっと土俗的、異教的であり、素朴な魅力に富んでいる。だが、ピクトの石碑を同時代の他の文化のものから最も際だたせているのは、石碑に彫られた不可解なシンボルマーク群だ。手鏡、櫛、魚、蛇、などといった具象的なシンボルとともに、三日月にZ型の棒、二つの円盤がつながったものなど、抽象的なもの、さらに「ゾウ」とよばれる架空の動物と見られるものなど、30種類以上ものシンボルマークが人物像などとともに、あるいは単体で彫られている。シンボルが彫られた石碑の数は現存しているもので二百数十ほどもあり、破壊されたり埋まっていたりしているものを考えると、少なくともその数倍はあっただろうと考えられている。シンボルマークは彫られていないが、明らかにピクト人によるとみられるクラス3の石碑を加えるとその数は膨大なものになるに違いない。なぜこれほど多くの石碑を作ったのか、そもそも何のための石碑なのか。埋葬地の近くに立っていたものが多いことから墓碑と見る説、シンボルマークを部族のシンボルと見て、部族を超えた婚姻を記念したものだという説、部族間の領土をめぐる争いなどの調停を示したものだという説など、様々な仮説がある。いずれにしてもこれらのシンボルマークの意味が解明されないかぎり明確な答えは得られないだろうし、今後これらのマークについて直接言及した文書でも新たに発見されないかぎり、マークの意味が解明されることはないだろう。

以下、ピクトのシンボルの代表的なものを紹介する。

三日月とV字棒
最も多く登場するシンボル で、三日月の中は細かな組紐模様で飾られていたり、図のように簡単な模様だけであったりまちまち。Z棒はおそらく矢で、これを戦士のシンボルと見たり、「折れた矢」として「戦死」を意味すると見たり、解釈はいろいろだ。

象、または「ピクトの獣」
頭はペリカンのようで、体は四つ足の動物のような妙な生き物の絵。尻尾があり、後ろ頭にも触角のようなポニーテイルのようなものがついている。象と見るのは無理がある。これもたびたび現れるシンボルだ。

馬蹄形
馬蹄のような形に見えるが、実際なんなのかはわからない。

ダブルディスク
これも意味不明なシンボルだが、ピクトのシンボルの代表的なものだ。二つの円盤がつながった模様だが、円盤は図のように欠けがあることも多い。

ダブルディスクにZ棒
Z棒はV字棒と同じく、戦死を意味するという説があるが、不明。これも最も多く登場するシンボルなので、これが戦死を意味するとしたら、ピクトの石碑の多くは墓碑だということになる。

手鏡とクシ
これも非常に多く登場するシンボルで、女性を連想させることから、婚姻時の持参金を示すものだという見方もある。もちろん、

音叉
音叉のような形なので便宜的にこう呼ばれる。意味不明。

段違いの四角
意味不明

トリプルディスク
丸を三つつなげて、センターに線を入れたもの。

ディスク
図のように円盤の中に円盤がかいてあるものもある。

三つつながった楕円
意味不明

鏡のケース
もちろん、鏡のケースではないだろうが、何の絵か不明なのでこう呼ばれている。

四角
これも意味不明。

先の割れた四角にZ棒
これも意味不明。


主にクラス1の石碑に現れる。

ヘビ、あるいはヘビにZ棒
これも意味不明なシンボルだが、ピクトのシンボルの代表的なものだ。二つの円盤がつながった模様だが、円盤は図のように欠けがあることも多い。

ワシ
動物はピクトの石碑にたくさん現れるが、シンボルマークになっているものはごく一部だけだ。

シカの頭
Glamis Manse のものが有名だ。

鍛冶屋の道具
ハンマーやはさみ、コップなど。


これが花なのかどうかわからないが、こう呼ばれている。房が二つのものと一つのものがある。

 

石碑の意味を考える上で、石が元々置かれていた場所というのは大変に重要だが、元の場所にそのまま残っていると思われるものは非常に少ないようだ。多くは建築用、特に協会などの大きな建築物の資材として再利用されたり、墓石として使われたりしているため、本来の設置場所が全くわからなくなっている。日時計として使われていたものもある。また、ピクトの社会がキリスト教化される過程において、クラス2の十字架とピクト人独自のモチーフが同居した絵柄は大きな意味をもったかもしれないが、教会が大きくなり、布教方法などに関する規律も厳格なものになると、ピクト的絵柄は異教的なものとして歓迎されないものにもなっていっただろう。十字架のみを残して、ピクト関連の絵柄を削り取られた石碑、逆に十字架のみを取ってしまったものなども多く見られる。石碑は古い教会の敷地から多く発見されることもあり、教会が周辺の石碑を集めて一般の目に触れないようにしていた可能性もある。ピクトの石碑は長い間さしたる関心をもたれることなく博物館の片隅にホコリをかぶり、あるいは路傍に鳥の糞などで汚れるままに放置されていた。それがここ10数年ほどのケルト再評価の流れの中で再注目されるようになり、ここ数年はかつてないほど「ピクト人」ブームだといってもいいかもしれない。1998年に訪れたときにはあまり充実していなかった資料も、2002年にはさまざまなガイド、研究書が観光案内所に置かれていて驚かされた。野ざらしになっていた石碑もケースに入れられるなど、すこしずつ保護されるようになってきたようだ。観光客向けにピクト人の国のイメージビデオを見せたり土産物を売ったりする施設も出来ていた。

私は1998年に初めてピクトの石碑を見て以来、強く関心を持つようになり、1998年と2002年にスコットランドを周遊しながら、ピクトの石碑を見て回った。ここで紹介する写真はすべて私が撮影したものだが、ピクトの石碑の主なものはほとんどカバーされている。ケルト文化というと大陸の遺跡からの出土品、島嶼ケルトでもブルトン族とアイルランドの金属の装飾品や初期キリスト教関連の美術が主役になりがちだが、ピクトの石碑はそれらに比肩しうる存在感と魅力を持っていると私は思う。アイリッシュ・クロスよりもヴァリエーションに富み、意匠の自由度が高く、技術の巧拙なども面白さのひとつだ。クラス2の石碑に関して言えば、絵を見て、これはどんな場面だろうかと想像する楽しさもある。